http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E7%85%95
『三国志』魏書袁紹伝の本編によると、202年9月〜204年8月まで鄴およびその周辺は曹操軍に包囲されており、他州から助勢があったという記述もない。
202年とは建安七年、204年とは建安九年。
・建安七年(202年)
・建安八年(203年)
- 3月、袁譚・袁尚敗北し黎陽から逃走。
- 4月、曹操が袁譚・袁尚を追って鄴まで進軍。
- 5月、曹操が許へ戻り、賈信を黎陽に駐屯させる。
- 8月、曹操が劉表征伐へ出る。袁譚と袁尚が争いを始める。袁譚が曹操に降伏し救援を求める。
- 10月、曹操が黎陽へ出る。
・建安九年(204年)
- 2月、袁尚が袁譚を攻めに出る。曹操が鄴を攻める。
- 4月、曹操は鄴を曹洪に任せ、自らは毛城、邯鄲を落とす。
- 5月、曹操、水攻めを行い鄴の城中餓死者多数。
- 7月、袁尚が鄴救援に駆けつけるも逆に敗北。降伏も受け入れられず、逃走。
- 8月、鄴城陥落。
見てのとおり、鄴が包囲されていたのは204年の2月から8月まで。
Wikipediaの引用部分の執筆者は建安七年の曹操と袁譚らの交戦が、最終的に鄴に至っただけで戦場は黎陽だったことを気づかず、建安九年の戦いと混同してしまったのだろうか。
執筆者は「202年9月〜204年8月まで」鄴が包囲されていたから袁煕が曹叡の父になることはありえない、としているので、これは崩れることになる。
もちろん『三国志』文昭甄皇后伝では「熙出為幽州、后留養姑」と言われているので「会ってないから子供が生まれる機会は無かったのではないか」という推測は否定されない。ただし、ずっと包囲されていたわけではないので、何らかの理由で袁煕が鄴に戻った時期があっても不思議ではないが。袁煕自身の動向はほとんど記録に無いし。
こうして見ると、「曹叡の実父説」を「疑わしい」と言ってしまえるまでの証拠があると言えるのか疑問である(少なくともWikipedia的には)。
もちろん、曹叡の父が曹丕ではないと主張しているのは『三国志集解』盧弼くらいだし、なにより始皇帝の父と違い当時の史書等で直接言及されたものではないので、「曹叡の実父説」が主流、定説とも思わないが。
一応言っておくが、私は別に「曹叡の実父説」を積極的に肯定したいわけではない。
否定意見の論拠がとんでもない誤読に基づいているのを正したいのだ。