董卓残党の一人、董承。
董承が殺されたのはあの献帝の密詔事件のことで、建安五年正月のことである。
そこからさかのぼること「歳余」では、献帝と共に董承が曹操に連れられ許へ移った建安元年とは大きくかけ離れている。
というわけで、上記董卓伝はどこか間違っていると解釈するのが普通だろう。
だが、ここで一つ別の解釈をしてみよう。
董承が殺される建安五年正月から「歳余」ということは建安三年か四年頃のことだろう。
曹操が呂布にトドメを刺したのが建安三年。
河内の大司馬張楊が死んだのが建安三年。
そして董承が車騎将軍に昇格するのが建安四年。
思うに、このあたりの時期は曹操の敵が減り、曹操の袁紹への不服従が明らかになってくる時期と重なっている。
董承が「太祖に従った」のは、この時期に中立派あるいは袁紹派と言うべき立場から曹操支持へと鞍替えしたということを示すのではなかろうか。
少なくとも建安三年から四年頃にかけては、董承が曹操支持に回ったことで曹操が安心して袁紹(+袁術)と戦えるようになったということかもしれない(曹操支持の報酬が車騎将軍位では?)。
このように解釈すれば、「歳余」で董承が殺されるということは矛盾しない。
「太祖に従った」のがいつだったのかの問題だったのである。
ま、これは言葉遊びみたいなもので単純に「董卓伝おかしいんじゃね」って考えればいいだけの話だとは思いますが。