吳書曰、權嘉遜功紱欲殊顯之、雖為上將軍列侯、猶欲令歷本州舉命、乃使揚州牧呂範就辟別駕從事、舉茂才。
(『三国志』陸遜伝注)
後漢から三国時代にかけて、官僚にとって「本州挙命」、すなわち州牧・太守の属僚となって孝廉・茂才などの優秀な官僚予備軍のお墨付きを受けることは一種の名誉であった。
陸遜はこれを受けておらず、孫権は彼への厚遇の一つとして、彼を右護軍鎮西将軍という高位にありながら敢えて揚州牧の属僚にし、茂才に推挙するという形を取った。
黃蓋は陸遜と違い茂才ではないが、郡太守より孝廉に推挙されて三公の府の属僚として招かれたという経歴を持っている。
群雄割拠の時代には孝廉・茂才に推挙するという悠長なことを言ってられなかったのかもしれないので同じように扱えないかもしれないが、経歴という意味では陸遜を軽く凌駕している。
黃蓋は全国レベルではないにしろ、当地では名の知られた名士であったのである。