司隷

前漢後漢は全国の郡をいくつかの州に分け、州ごとに刺史を置いて郡太守を監察させた。

しかし、いわゆる首都圏の三輔、三河、弘農の七つの郡(郡と呼ばれないのもあるが)は、刺史の監察対象にはなっていない。

これはつまり、刺史は「地方」監察官であり、上記の七郡は「中央」つまり政府の直轄地だということなのだろう。

『続漢書』百官志を見ると上記の七郡は司隷校尉が監察したとされている。
これは、もともと司隷校尉がそのために置かれたり、そのための官となったのではなく、中央の高官を中心とする諸官を監察・弾劾する司隷校尉の職務の一環として、同じ中央の高官である七郡の統治者を監察したということなのであろう。