『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/01/000100)の続き。





嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽・爽弟中領軍羲・武衛將軍訓・散騎常侍彦官、以侯就第。
戊戌、有司奏收黄門張當付廷尉、考實其辭、爽與謀不軌。又尚書丁謐・鄧颺・何晏・司隸校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範皆與爽通姦謀、夷三族。語在爽傳。
丙午、大赦
丁未、以太傅司馬宣王為丞相、固讓乃止。
夏四月乙丑、改年。
丙子、太尉蔣濟薨。
冬十二月辛卯、以司空王淩為太尉。
庚子、以司隸校尉孫禮為司空。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

嘉平元年。と言っても、「夏四月乙丑、改年」とあるので、それまでは実際には「正始十年」とされていた筈である。



司馬懿、クーデター。


多分以前の記事の方がこの辺は詳しい。




司馬懿は曹爽らの罷免を求める上奏を行うが、それを皇帝に上げるには先に曹爽が認めなければいけない。なので普通にやったら通らない上奏なのだが、司馬懿は軍を抑えてしまい、実力行使をちらつかせつつ罷免以上はやらないと思わせる事で、曹爽に曹爽本人を罷免する上奏を通させたのだ。


だが曹爽らが官位を失ってから「曹爽は反逆を企んでいた」という情報が明るみになり、曹爽らは一転して大逆の容疑者となったのである。



甲午から戊戌は4日、戊戌から丙午は8日しかない。つまりクーデターから処刑まで2週間も無いのであり、当然ながら罷免以降は司馬懿らの計画通りの仕組まれた大逆摘発、尋問、断罪だったに違いない。




二月、天子以帝為丞相、增封潁川之繁昌・鄢陵・新汲・父城、并前八縣、邑二萬戸、奏事不名。固讓丞相。
冬十二月、加九錫之禮、朝會不拜。固讓九錫。
(『晋書』巻一、宣帝紀


司馬懿は丞相への昇進を固辞したが、領土の加増は受けたようである。また、『晋書』宣帝紀などによれば九錫も辞退したという。


丞相・九錫となるともはや生前の魏武と同じクラスである。





なお、このクーデターの時の太尉蔣済は司馬懿と共に軍を率いた人物で、司徒高柔は曹爽の軍を接収した人物。新たに司隷校尉続いて司空になった孫礼は司馬懿に曹爽排除を求めたとされる人物。


司馬懿はこういった協力者によってクーデターを成功させ、成功後は更にシンパを朝廷に増やしていったと言う事であろう。