武陵太守

吉茂字叔暢、馮翊池陽人也、世為著姓。・・・(建安)二十二年、坐其宗人吉本等起事被收。・・・後以茂為武陵太守、不之官。
(『三国志』常林伝注引『魏略』)

後漢末に曹操に対し反乱を起こした吉本の一族である吉茂は、建安22年以降に武陵太守になっている。

しかしこの武陵郡、曹操政権から見ると赤壁直後に太守金旋が劉備に殺されて以降、劉備孫権によって支配されている。実際に武陵を曹操政権が支配したわけではない。

ではこれはいわゆる遥任で、全く実態を伴わないものだったのか。


おそらく、そうではない。

武陵は建安19年(214年)に劉備への帰属が孫権との間で決定された。
その後、建安24年(219年)に孫権曹操と同盟した上で荊州関羽を破り、荊州を占領した。

この時点では、曹操(または後漢皇帝献帝)から見れば、孫権が占領した武陵郡は自分の勢力下ということなのである。
だから、武陵郡に自分の側の太守を送り込んでもいいという理屈になる。
おそらくだが、この状況下でいつ蜀から攻められることか分からない危険な任務として最近まで捕まっていた吉茂が選ばれたのだろう。

しかし、実際には吉茂は武陵まで行かなかった。
おそらく、劉備のリベンジ(いわゆる夷陵の戦い)で赴任前に武陵近辺も戦場となり、しかもその後は魏が呉に攻め込むという形となったために武陵への赴任が不可能となったためだろう。

少なくとも、辞令が出た段階では赴任出来る状態だと思われていたのだろう。