謀ってくれた喃

周の文王、武王は自分および次の代の補佐役として、太公望と周公旦を用いた。


太公望は釣りの逸話を見て分かるように、文王が在野から見出した賢人であるとされる。

周公旦は武王の弟であり、親族中の賢人を用いたものと言える。


漢の武帝は晩年、丞相すなわち宰相の人事で異例なことを連続して行っている。

劉屈氂は武帝から見ると甥に当たる人物であるが、副宰相の御史大夫も経ずにいきなり丞相に抜擢された。
ちなみに漢では皇帝の近親で丞相となったのは彼だけである。

その次に丞相となった田千秋は、高寝郎という低い地位から武帝に見出され、あっという間に丞相に抜擢された。

どちらもほとんど尋常な人事とは思えず、老齢の武帝が曖昧になったのではないかとも疑ってしまうが、見方を変えると、武帝は周の文王・武王を真似たようにも思える。

つまり、周公旦の模倣として親族より劉屈氂を抜擢し、太公望の模倣として身分の低い賢人(皇太子の冤罪を武帝に説いた)の田千秋を抜擢したのではないか。