李広利の降伏と太医令

有詔捕太醫令隨但、言貳師將軍家室族滅、使(李)廣利得降匈奴
(『史記』巻一百十、匈奴列伝)

漢の武帝は太医令隨但を捕えさせた。



罪状は「貳師将軍李広利の家族が族滅されると言ったため、李広利が匈奴に降伏した」という事だそうだ。




なんで太医令なのか、と不思議に思ったのだが、多分それはこの辺りに関係あるのではないか。

其明年、貳師將軍李廣利將兵出擊匈奴、丞相為祖道、送至渭橋、與廣利辭決。廣利曰「願君侯早請昌邑王為太子。如立為帝、君侯長何憂乎?」(劉)屈氂許諾。昌邑王者、貳師將軍女弟李夫人子也。貳師女為屈氂子妻、故共欲立焉。是時治巫蠱獄急、内者令郭穰告丞相夫人以丞相數有譴、使巫祠社、祝詛主上、有惡言、及與貳師共禱祠、欲令昌邑王為帝。有司奏請案驗、罪至大逆不道。有詔載屈氂廚車以徇、要斬東市、妻子梟首華陽街。貳師將軍妻子亦收。貳師聞之、降匈奴、宗族遂滅。
(『漢書』巻六十六、劉屈氂伝)


当時の丞相劉屈氂は李広利と通婚しており、李広利の甥(妹が産んだ武帝の子)昌邑王は当時の皇太子候補であった。


だが劉屈氂と李広利は共謀して皇帝を呪詛しているという疑いが生じて劉屈氂は処刑され、李広利の家族も捕まった。



この時、どういう経緯かは分からないが、太医令の隨但という者が、出征していた李広利に家族が処刑待ったなし(あるいは処刑済)である事を伝えた、という事なのだろう。



李広利としては、家族がもうアカンとなれば匈奴へ逃げる事に対して抵抗が無くなってしまう。




皇帝の近くにいる太医令だから、そういった機密情報を入手して伝達できたのだ、という可能性もあるかもしれない。