卿子冠軍

項梁の死後、秦の章邯に包囲された趙を救うため、楚の懐王は宋義を大将、項羽を副将として趙へ派遣すると同時に、劉邦を別働隊の将にして西に派遣した。


この時、懐王たちは刃向かう者を殲滅する項羽ではなく「長者」劉邦を秦に派遣した方が良い、と判断したという。
つまり、劉邦は単なる別働隊ではなく、最初から秦攻めを命じられた作戦のキモなのだ。
で、宋義、項羽らは秦最後の主力といえる章邯軍を押さえ、劉邦の別働隊を邪魔されないようにするのが最大の目的なのだろう。
楚側も主力といえるのは宋義らの方の軍だろうが、作戦の中心は劉邦だったことになる。


何しろ章邯は項梁を討った名将であり、楚としても真っ向からぶつかって勝てるという保証はない。しかも楚は項梁が敗れたばかりである。
だったら真っ向勝負はせず、章邯をひきつけて秦を裏口から回って倒してしまおうという作戦なわけだ。


だから、宋義が趙救援に消極的だったり、故意に進軍を遅らせていたと思われるのも、愚行や私利私欲によるものではなく、劉邦の作戦遂行を助けるための時間稼ぎと考えた方がいいのかもしれない。
章邯と戦端を開いて勝てればいいが、あっさり負けたら次には小勢の劉邦も各個撃破されるわけで、楚の作戦全体が台無しになる。
宋義は自分たち主力の作戦上の意味を理解していたということだ。


項羽はそれを理解していなかったのか、恨みや功名心からなのか、急戦を主張して宋義と対立し、挙句に宋義を殺して自分が大将となった。
その後、打って出た項羽は趙の包囲を解き章邯を下すという活躍を見せるわけだが、その勝利は文字通り「背水の陣」による薄氷の勝利。あの項羽をもってしても危険な勝負であったのだ。


宋義の時間稼ぎが誤りであったとは断言しがたいのではないだろうか。むしろ、半丁バクチに全財産を賭けるようなマネをしなかった、つまりごく普通の判断だったのではないか。


そして、劉邦は趙と宋義・項羽が章邯を釘付けにしている間に南陽方面を平定し、武関から関中に侵入して秦を下した。


劉邦も宋義も作戦通りに行動し、期待どおりの働きをしたのである。