漢の昭帝非実子説

漢の武帝離宮で死亡した。その直前に幼児である劉弗陵が皇太子に立てられ、崩御の報と共に皇帝に即位し、それまで奉車都尉だった霍光が大将軍となって守り立てる体制が発表された。
この時、武帝の子で最年長だった燕王劉旦はこの幼児皇帝への疑惑の目を向けた。

武帝崩、昭帝初立、(燕王)旦果作怨而望大臣。自以長子當立、與齊王子劉澤等謀為叛逆、出言曰「我安得弟在者!今立者乃大將軍子也。」(『史記』三王世家)
帝崩、太子立、是為孝昭帝。賜諸侯王璽書。(燕王)旦得書、不肯哭、曰「璽書封小。京師疑有變」遣幸臣壽西長﹑孫縱之﹑王孺等之長安、以問禮儀為名。王孺見執金吾廣意、問帝崩所病、立者誰子、年幾歲。廣意言待詔五莋宮、宮中讙言帝崩、諸將軍共立太子為帝、年八九歲、葬時不出臨。歸以報王。王曰「上棄群臣、無語言、蓋主又不得見、甚可怪也」(『漢書』燕王旦伝)

史記』では、燕王は「弟などいない。大将軍霍光の子ではないのか」と言っている。いかに反逆を企てた者の流言とはいえ、全く根拠の無い言葉では意味がない。なんらかの、武帝の子ではないに違いないという疑念を生じる余地があったのではないだろうか。
また『漢書』の書き方だと、この時点では燕王たちは誰が皇太子(劉弗陵)になったのか、どんな血統なのかも分からないようだ。その上、武帝死亡時の状況が大臣たちにも不明瞭な、極めて怪しさの残るものであったらしい。
漢書』では燕王は更にこう言っている。「呂后の時代にも偽って別人の子を皇帝に立てたことがあった。今の皇帝も劉氏の子ではないのではないか」
長安の皇帝、大将軍たちはここまで言う燕王に厳しい態度を取らず、穏便に済ませる方策を採り、この疑惑も曖昧なままに立ち消えとなった感がある。
しかし、武帝死後に燕王がそこまで明言するほどの疑惑の代替わりがあったことは間違いない。