五校尉派遣

(黄初六年)六月、利成郡兵蔡方等以郡反、殺太守徐質。遣屯騎校尉任福・歩兵校尉段昭青州刺史討平之。其見脅略及亡命者、皆赦其罪。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初六年)


黄初6年の徐州反乱に対して文帝曹丕は屯騎校尉と歩兵校尉という、皇帝直属のいわば近衛兵の五校尉の一部を派遣している。



ここで、なぜ誰か将軍を派遣しなかったのだろうか、と思ったが、もしかしたら、皇帝直属の五校尉を派遣することで、「皇帝自らが乱を鎮圧した」という軍事的な箔を付けようとしたんじゃないだろうか。



曹丕にはこれまでこういった功績が皆無でもないが、父と比べたら遥かに少ないのは事実なので、直前には孫権征伐が上手くいかないという失態を演じた後でもあるし、少しでもポイントを稼ぎたかったのではないか。




まあ、状況的に派遣しやすい将軍がおらず、すぐ対応できる軍が五校尉の兵だった、というだけかもしれないが・・・。



ただ、敢えて五校尉にすることには何か意味があってもおかしくはないんじゃないか、とは思う。