公孫淵の郎中令

(嘉禾元年)冬十月、魏遼東太守公孫淵遣校尉宿舒・郎中令孫綜稱藩於(孫)權、并獻貂馬。權大悦、加淵爵位
(『三国志』巻四十七、呉主伝、嘉禾元年)

(公孫)淵遣使南通孫權、往來賂遺。權遣使張彌・許晏等、齎金玉珍寶、立淵為燕王。
(『三国志』巻八、公孫淵伝)


公孫淵孫権に恭順の使者を送り、孫権公孫淵を燕王に立てた、とされている。



だがよく見ると、公孫淵が燕王になる前から、王国の官であるはずの「郎中令」が出てきている。




太祖表(公孫)度為武威將軍、封永寧郷侯、度曰「我王遼東、何永寧也!」藏印綬武庫。
(『三国志』巻八、公孫度伝)


もしや、かつて公孫淵の祖父公孫度が言った「自分は遼東の王である」という言葉は比喩的表現ではなく、本当に王を自称していて、王国の官も自分で置いていたのだろうか?