南陽文氏

呉主(孫)權王夫人、南陽人也。以選入宮、嘉禾中得幸、生(孫)休。及(孫)和為太子、和母貴重、諸姫有寵者、皆出居外。夫人出公安、卒、因葬焉。休即位、遣使追尊曰敬懐皇后、改葬敬陵。王氏無後、封同母弟文雍為亭侯。
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主權王夫人)


孫休の母である南陽の王夫人。この王夫人は孫休が皇帝に即位した時には既に世を去っており、王氏の後継者もいなくなっていたらしい。



そこで孫休は「同母弟文雍」を亭侯に封建したのだという。




ここの「同母弟」は「母は同じ、父は違う」弟という意味だろう。つまり、おそらくは王夫人の母の再婚後に生まれた父の違う弟だろう。


そして、その弟の姓が「文」氏なのだと思う。




王夫人は南陽の人なので、おそらくだが再婚相手も南陽の人の可能性が高い。



つまり、「同母弟文雍」とは南陽の人で姓「文」、名「雍」ということだろう。




南陽の同時代の文氏といえば文聘や文穎。


近親ではないのだろうが、彼らはおそらく同族なのだと思う。