民の出入り

(張)魯降、既説太祖拔漢中民數萬戸以實長安及三輔
(『三国志』巻十五、張既伝)

太祖征漢中、以(鄭)渾為京兆尹。渾以百姓新集、為制移居之法、使兼複者與單輕者相伍、温信者與孤老為比、勤稼穡、明禁令、以發奸者。由是民安於農、而盜賊止息。及大軍入漢中、運轉軍糧為最。又遣民田漢中、無逃亡者。太祖益嘉之、復入為丞相掾。
(『三国志』巻十六、鄭渾伝)

張魯曹操に降伏してから、漢中近辺の民の多くが強制移住させられたらしい。



一方、『三国志』鄭渾伝によれば、京兆尹鄭渾は漢中へ民を派遣して農業をやらせた、ということらしい。





この三輔から漢中へ派遣されたらしい民は、漢中からの強制移住の際に一緒にまた移住させられたのだろうか?


それとも、元からの民は別のところへ移住させられ、この派遣されていた民は漢中に残留したのだろうか?



どちらにしても、派遣された民は中々過酷な運命だったのではなかろうか。民の強制移住が頻繁過ぎな気がする。