王基の奪い合い

王基字伯輿、東萊曲城人也。少孤、與叔父翁居。翁撫養甚篤、基亦以孝稱。年十七、郡召為吏、非其好也、遂去、入琅邪界游學。黄初中、察孝廉、除郎中。
是時青土初定、刺史王淩特表請基為別駕、後召為祕書郎、淩復請還。頃之、司徒王朗辟基、淩不遣。朗書劾州曰「凡家臣之良、則升于公輔、公臣之良、則入于王職、是故古者侯伯有貢士之禮。今州取宿衛之臣、留祕閣之吏、所希聞也。」淩猶不遣。淩流稱青土、蓋亦由基協和之輔也。
大將軍司馬宣王辟基、未至、擢為中書侍郎。
(『三国志』巻二十七、王基伝)


青州刺史王淩は、別駕王基が秘書郎に召し出されても取り戻し、司徒王朗が辟召しても派遣しなかった。王朗が王淩の態度を弾劾してもなお派遣しなかった。


つまり別駕(秘書郎)王基ひとりをめぐって三公と刺史が公にやりあった、ということだ。




当時の青州といえば少し前まで臧覇らによる事実上の独立状態だった地域もあり、そんな時代の長官を総とっかえした頃のはずである。つまり反中央的な気風が強く、地元の人間の言うことしか聞かない、みたいな状況になっていたのではないか。


王基のような地元出身で著名な人間を立てないと、青州は統治できそうになかった、ということなのではないだろうか。



そうでもなければ、流石に三公に喧嘩を売ってでも王基を手元に置きたい、とはならないだろう。