『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その23

その22(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/15/000100)の続き。





二月、天子以帝為丞相、增封潁川之繁昌・鄢陵・新汲・父城、并前八縣、邑二萬戸、奏事不名。固讓丞相。
冬十二月、加九錫之禮、朝會不拜。固讓九錫。
二年春正月、天子命帝立廟于洛陽、置左右長史、增掾屬・舍人満十人、歳舉掾屬任御史・秀才各一人、增官騎百人、鼓吹十四人、封子肜平樂亭侯、倫安樂亭侯。帝以久疾不任朝請、毎有大事、天子親幸第以諮訪焉。
兗州刺史令狐愚・太尉王淩貳於帝、謀立楚王彪。
(『晋書』巻一、宣帝紀

対立する同等の者が消えた司馬懿は、皇帝から丞相の位や九錫をはじめとする種々の官爵や特権を与えられる。ただ、丞相と九錫は固辞したとのこと。


所領の8県2万戸というのは、当時の感覚ではほとんど1つの郡の規模ではなかろうか。


是時、(王)淩外甥令狐愚以才能為兗州刺史、屯平阿。舅甥並典兵、專淮南之重。淩就遷為司空。司馬宣王既誅曹爽、進淩為太尉、假節鉞。淩・愚密協計、謂齊王不任天位、楚王彪長而才、欲迎立彪都許昌
(『三国志』巻二十八、王淩伝)


太尉王淩と兗州刺史令狐愚、反乱を企む。


許昌に拠るというのは曹爽の時の桓範の策に似ている。


また、後漢末のいわゆる反董卓の挙兵の際、新たな皇帝を立てようという動きがあった事にも似ているかもしれない。




魏王朝の側から見て、現在の皇帝の事は無視する王淩たちの挙は忠義なのかどうなのか。案外難しい問題かもしれない。