烈祖様の後宮

(楊)阜又上疏欲省宮人諸不見幸者、乃召御府吏問後宮人數。吏守舊令、對曰「禁密、不得宣露。」阜怒、杖吏一百、數之曰「國家不與九卿為密、反與小吏為密乎?」帝聞而愈敬憚阜。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)


三国魏の楊阜、烈祖様の頃に「後宮の中で陛下がリラックスしなかった者を減らすべし」という進言をしようと後宮の人数を所管の役人に訊ねたところ、その役人は機密なのでとすべて黒塗りの回答を返したのだそうだ。


楊阜は怒ってその役人を百叩きにしたそうだが、ここで注目すべきは「後宮の人数を減らすべき」という諫言を行おうとしていたというところ。


魏明帝景初元年九月、淫雨、冀・兗・徐・豫四州水出、沒溺殺人、漂失財産。帝自初即位、便淫奢極慾、多占幼女、或奪士妻、崇飾宮室、妨害農戰、觸情恣慾、至是彌甚、號令逆時、飢不損役。此水不潤下之應也。
(『晋書』巻二十七、五行志上、水)


烈祖様と後宮についてはこういった記録があり、それによると後宮に幼女から人妻まで揃えていたということなので、実際に楊阜が諫言せずにはいられないような規模になっていた、ということなのだろう。




また、後宮の事については九卿しかも少府にも秘密であった、というのも興味深い。


少なくとも後漢の制度では、形式的には尚書やら侍中やら中常侍やらといった奥向きの諸官もほとんどが少府所属だったはずなので、もしかすると楊阜は少府の所管事項のつもりで後宮の人数を問い質したのではないだろうか。


それを断られたから、いわば上官の権限として懲罰を加えたのではないか。



それに対し「旧令」を盾に証言を拒んだようなので、これは後漢の頃から後宮が実質的に少府から独立していた、ということを示すのかもしれない。



少府と後宮がどういう関係なのか、という点でちょっと面白い。