『漢書』景帝紀を読んでみよう:その9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171113/1510499665)の続き。




六年冬十月、行幸雍、郊五畤。
十二月、改諸官名。
定鑄錢偽黃金棄市律。
春三月、雨雪。
夏四月、梁王薨、分梁為五國、立孝王子五人皆為王。
五月、詔曰「夫吏者、民之師也、車駕衣服宜稱。吏六百石以上、皆長吏也、亡度者或不吏服、出入閭里、與民亡異。令長吏二千石車朱両轓、千石至六百石朱左轓。車騎從者不稱其官衣服、下吏出入閭巷亡吏體者、二千石上其官屬、三輔舉不如法令者、皆上丞相御史請之。」先是吏多軍功、車服尚輕、故為設禁。
又惟酷吏奉憲失中、乃詔有司減笞法、定箠令。語在刑法志。
六月、匈奴入鴈門、至武泉、入上郡、取苑馬。吏卒戰死者二千人。
秋七月辛亥晦、日有蝕之。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝中6年。




この年、中央官庁の官名を数多く改めている。



おそらくだが、これも漢王朝の中央官庁と諸侯王の国の官を区別し、差を設ける主旨があったのではなかろうか。ただし、全ての官が変わったわけでもないので、何か別の理由もあったのかもしれない。




また、官吏の馬車や衣服をその官位に合ったものにするように、という命令も出されている。このような時代においては、簡易すぎる服装などというのも秩序を乱す一種の罪なのである。



景帝元年、下詔曰「加笞與重罪無異、幸而不死、不可為人。其定律、笞五百曰三百、笞三百曰二百。」猶尚不全。
至中六年、又下詔曰「加笞者、或至死而笞未畢、朕甚憐之。其減笞三百曰二百、笞二百曰一百。」又曰「笞者、所以教之也、其定箠令。」丞相劉舍・御史大夫衛綰請「笞者、箠長五尺、其本大一寸、其竹也、末薄半寸、皆平其節。當笞者笞臀。毋得更人、畢一罪乃更人。」自是笞者得全、然酷吏猶以為威。死刑既重、而生刑又輕、民易犯之。
(『漢書』巻二十三、刑法志)


景帝は文帝による肉刑廃止によるムチ打ちが実際には死者を増やしているのだという批判に応え、ムチ打ちの数を減らすなどしてムチ打ちで死者が続出しないように調整した。「毋得更人、畢一罪乃更人」というのは、ムチ打ちする人が疲れたからといって元気な人間に交替しないように、ということだろう。



中六年二月己卯、行幸雍、郊見五帝。
三月、雨雹。
四月、梁孝王・城陽共王・汝南王皆薨。
立梁孝王子明為濟川王、子彭離為濟東王、子定為山陽王、子不識為濟陰王。梁分為五。封四侯。
更命廷尉為大理、將作少府為將作大匠、主爵中尉為都尉、長信袪事為長信少府、將行為大長秋、大行為行人、奉常為太常、典客為大行、治粟内史為大農。以大内為二千石、置左右内官、屬大内。
七月辛亥、日食。
八月、匈奴入上郡。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』も大きな違いは無いか。



なお、梁孝王というのは景帝の同母弟。おそらくそういった関係で、呉や斉への防壁としての役割も期待されて大きな領土を持たされていたのだと思うが、その役割も終えたということで分割相続によって勢力を削がれたのだろう。