孫慮と孫登

孫慮字子智、(孫)登弟也。少敏惠有才藝、(孫)權器愛之。黄武七年封建昌侯。後二年、丞相(顧)雍等奏慮性聰體達、所尚日新、比方近漢、宜進爵稱王、權未許。
(『三国志』巻五十九、孫慮伝)


孫呉孫権の子の孫慮は、孫権が皇帝になったときに「漢のように王にすべきだ」という臣下の声があったにも関わらず王とはならなかった。孫権は彼を列侯のままにしていたことになる。




孫権が謙虚だったと言うこともできるだろうが、その後孫奮や孫休は王にしているわけだから、孫慮だけ王にならないままになってしまったことになっている。伝を見る限りでは能力や人格の問題ではなさそうなのに。むしろ後継者に選びたくなるようなことばかり書いてある。




これ、実は「王という藩屏にしない」という形で、太子であった孫登に一種のプレッシャーをかけていたのではなかろうか?


「お前が死んでも代わりはいるもの」というわけだ。いや、もっと積極的に「お前とチェンジしようかと思ってる」かもしれない。



王にしてしまうと、世間的に孫慮は「太子にはなれず分家を作った」と扱われるのだろう。



「王になってもおかしくないのに何故か王になっていない」という異常事態のままにしておくことで、孫権は孫登に対して地位が安泰ではないのだ、いつでも孫慮を皇太子にできるのだ、というメッセージを送っていたのではないか?



王にしてしまうと一種の小王朝になるために身動きが取りにくくなるのだろう。