呉の諸侯王

昨日の孫権の王の話だが、そういえば孫権の時はそもそも息子ですらなかなか王にしなかったんだった。



孫慮は王にならず、孫和も太子になる前は王じゃなかったらしい。



もしかして、孫和が太子になった時に孫覇が魯王になったというのが最初で、その次も孫和・孫奮・孫休が王になった太元2年、つまり孫権が死ぬ年・・・?




つまり、孫権の皇帝時代はそもそも王が立っていない時期が割と長く、その後もあの魯王しか封建されず、死に際になって初めて他の皇子を王にした、というコト・・・?




兄の子が封建されてないどころか、皇帝の子も封建されていない、ということだった。





つまり、諸侯王自体がほとんどいない。


封建された王もどれも支配圏外の遥領で、少なくとも領土の実態はない名前だけであるのにも関わらず、孫権時代の呉は諸侯王をかなり出し惜しみしていた、ということらしい。