(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。・・・(後略)・・・
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后)
後漢献帝の伏皇后は列侯で公主の夫でもある伏完の娘だが、「卑賤」から皇后になったのだと言われている。
思うに、伏皇后の母は「盈」だが、伏完の正妻である公主は「華」なので、「盈」が姓であろうが名であろうが同一人物ではない。
つまり伏皇后の母「盈」は公主ではなく、おそらくはあまり地位の高くない生まれなのだろう。
そういった母から生まれたことをもって[卑賤」と呼ばれているということだと思う。
次の皇帝の母は「倡家」の生まれだが、これも同じ観点では次の皇帝およびその母も「卑賤」と呼ばれ得たということなのだろうか?