昨日の梁貴人(鄧皇后)の話、最初桓帝は彼女を「薄氏」としていた。
これはまず間違いなく梁冀との関係をうかがわせる「梁氏」を名乗らせたくなかったからなのだと思うのだが、この時に最初から本来の姓である「鄧氏」に戻さないのは少々面白い。
少なくとも当初は彼女はあくまでも梁氏だとの認識が強く、鄧氏に戻すという発想になりにくかったということか?
この時代、何苗や曹叡、拒絶しているが何晏など、母の連れ子が再婚相手の姓を名乗ってその家の子として扱われるらしいという例がちょくちょくあるのが面白い。
母の実家の養子になるという例も含め、後漢から晋あたりまでは結構こういった改姓事例が多い気がする。気がするだけかもしれないが。