斉の桓公のように

興平二年冬、天子播越、敗於曹陽。(袁)術大會群下、因謂曰「今海内鼎沸、劉氏微弱。吾家四世公輔、百姓所歸、欲應天順民、於諸君何如?」衆莫敢對。
主簿閻象進曰「昔周自后稷至于文王、積徳累功、參分天下、猶服事殷。明公雖奕世克昌、孰若有周之盛?漢室雖微、未至殷紂之敝也。」
術嘿然、使召張範。範辭疾、遣弟承往應之。術問曰「昔周室陵遅、則有桓文之霸。秦失其政、漢接而用之。今孤以土地之廣、士人之衆、欲徼福於齊桓、擬迹於高祖、可乎?」承對曰「在徳不在衆。苟能用徳以同天下之欲、雖云匹夫、霸王可也。若陵僭無度、干時而動、衆之所弃、誰能興之!」術不説。
(『後漢書』列伝第六十五、袁術伝)

献帝がさすらいの皇帝となったのを知った袁術は、臣下を集めて「今や劉氏は微弱であるが、一方で私は四世に渡り宰相となり天下の民の信望を集めている。天命に応じて民の望みに従おうと思うのだがどうだろうか?」と訊いた。



つまり、天下の信望を集めている自分こそが衰亡した漢の皇帝に代わって皇帝になるべきだと思うがどうか、と訊いたわけだ。




それに対し、主簿の閻象がこう答えたという。



「周は代々徳と功績を積み、強大な力を持ってもなお殷に仕えていました。貴方の家の功績は周と比べてどうでしょうか?また、漢の皇室が衰微しているとはいっても、まだ殷の紂王ほどの問題とはなっていません」



つまり、反対しているのである。




そこで、今度は自分の招聘に応じなかった名士張範に聞こうとしたが、張範は弟の張承を遣わした。



そこで袁術は張承に訊ねる。



「周王室が弱体化した時には斉の桓公が現れて覇者となった。秦の失政の際には漢の高祖がそれを継承した。今、私は広大な領土と多くの人々を抱えている。斉の桓公や漢の高祖のようになってみようと思うのだが、どう思うか?」



張承はこう答えたという。




「それは徳の問題であり、領土や人数の問題ではありません。徳があれば民間人であっても覇王になれましょう。もし上の地位を窺う異心があれば、人々に捨てられることでしょうから、斉の桓公や漢の高祖のようになることなどできないでしょう」






つまるところ、袁術の皇帝になろうとする野望に対し当時の家臣や名士たちは異を唱えていたという話であるが、ここで注目すべきは袁術が自分を斉の桓公や漢の高祖に準えようとしていることだろう。




袁術が皇帝になろうとしていたという文脈で言われているということは、桓公や高祖のようだと認識されることはこの当時新たな皇帝に認められる条件の一つであった、ということなのだろう。





荀紣曹操に対し漢の高祖のようになれると焚きつけたり、曹操が建安十五年に出した令の中で晋の文公・斉の桓公といった覇者を例に出したりするのは、きっと偶然ではない。


曹操にとっても桓公や高祖のようになることは、自分たちが新王朝を開くステップの中の一つであるはずなのだから。