それまでの司馬遷

(司馬)遷生龍門、耕牧河山之陽。年十歳則誦古文。二十而南游江淮、上會稽、探禹穴、闚九疑、浮沅湘。北渉汶泗、講業齊魯之都、觀夫子遺風、郷射鄒嶧、戹困蕃・薛・彭城、過梁楚以歸。
於是遷仕為郎中、奉使西征巴蜀以南、南略邛・筰・昆明、還報命
(『史記』巻一百三十、太史公自序)

史記』で司馬遷自ら言うところでは、「会稽や斉・魯を巡り歩いて帰ってきてから漢王朝に仕えた」という。



そして、「使者となって巴・蜀より南へ「」し、邛・筰・昆明といった諸国を「」した」のだそうだ。




「征」、「略」は全く平和的な移動だけを意味している可能性ももちろんあるだろうが、どうも素直に読もうとすると「皇帝の命で巴・蜀以南の征服の軍に従軍し、邛・筰・昆明を制圧していった」となりそうな気もしないでもない。



この時の司馬遷は郎中なので、軍事的な意味で巴・蜀以南(西南夷。後の「南中」のあたり)へ派遣されて将校あるいは監督官あたりとして従軍していたとしても不思議でもないのではなかろうか。





史記』『漢書』あたりで「略○○」(○○は地名)という場合、どうも「侵略」「略奪」の意味合いで使われる場合が多いように感じるのである。





私は印象で物を言っているので実際のところどうなのかは現時点では何とも言えない。