それでは、今度は『後漢書』に手を出してみようと思う。
ただ、『漢書』以上に不案内なので、色々と間違いもあるだろうとは思うが。
孝靈皇帝諱宏、肅宗玄孫也。
曾祖河閒孝王開、祖淑、父萇。世封解瀆亭侯、帝襲侯爵。母董夫人。
桓帝崩、無子、皇太后與父城門校尉竇武定策禁中、使守光祿大夫劉儵持節、將左右羽林至河閒奉迎。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)
後漢の霊帝の諱は宏。つまり劉宏。粛宗、つまり後漢章帝(明帝の子)の玄孫。
章帝の子である河間孝王劉開の子孫からは、桓帝がまず皇帝に立てられ、その桓帝が後継ぎ無く死ぬと、この解瀆亭侯劉宏が皇帝に立てられた。
章帝の子孫は河間孝王の系統だけでも他にも何人もいた筈(河間王も残っている)だが、そこから敢えてこの劉宏が選ばれたのは、世代や年齢、そして後ろ盾の無さなどの条件が適合したという事だろうか。後ろ盾のない少年(十代前半)の方が、この時に皇帝を擁立する立場になっている皇太后らにとっては都合がいいのである。
其冬帝崩、無嗣。(竇)武召侍御史河閒劉儵、參問其國中王子侯之賢者、儵稱解瀆亭侯宏。武入白太后、遂徴立之、是為靈帝。拝武為大將軍、常居禁中。
(『後漢書』列伝第五十九、竇武伝)
皇太后の父である竇武が河間国の人間であった劉儵(先帝である桓帝の出身が河間国である)に河間国の王族たちで賢明な者を尋ねたところ、劉宏の名が出てきたのだという。上記のような条件に一番当てはまり、それでいて能力的にも最低限くらいはある、と考えられたのが彼だったのだろう。
そしてこの意見を述べた劉儵が使者となって劉宏を迎えに行っている。
桓思竇皇后諱妙、章徳皇后從祖弟之孫女也。父武。
延熹八年、鄧皇后廢、后以選入掖庭為貴人。其冬、立為皇后、而御見甚稀、帝所寵唯采女田聖等。
永康元年冬、帝寝疾、遂以聖等九女皆為貴人。及崩、無嗣、后為皇太后。太后臨朝定策、立解犢亭侯宏、是為靈帝。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、桓思竇皇后)
なお、皇太后の竇氏は桓帝の皇后だが、桓帝からはあまり寵愛されずにいたそうだ。