ブダペスト

太后留(劉)歆為右曹太中大夫、遷中壘校尉、羲和、京兆尹、使治明堂辟雍、封紅休侯。典儒林史卜之官、考定律暦、著三統暦譜。
(『漢書』巻三十六、劉歆伝)

かの王莽の腹心劉歆は「紅休侯」に封建された。


初、休侯富既奔京師、而王戊反、富等皆坐免侯、削屬籍。後聞其數諫戊、乃更封為紅侯
(『漢書』巻三十六、楚元王交伝)

その劉歆の先祖劉富(楚元王劉交の子)は当時の楚王の叔父で、「休侯」に封建されていた。



楚王の反乱(呉楚七国の乱)の際に劉富も爵位を奪われたが、その後に楚王を諫めていたという理由で劉富はまた「紅侯」になった。




「紅休侯」というのは、おそらくは劉歆の先祖が封建された2つの侯国の地名をそのまま合体させた名なのだろう。



なかなか面白い命名ではないだろうか。なんだかブダペストを思い出す。




侯国がそのまま「紅侯国」と「休侯国」を合体させた領域なのか、名前だけ取ってまるで別の場所を領土としたのかは分からないが。