長男だから耐えられた

孝獻皇帝諱協、靈帝中子也
【注】
謚法曰「聰明睿智曰獻。」協之字曰合。張璠記曰「靈帝以帝似己、故名曰協。」帝王紀曰「協字伯和。」
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


後漢献帝には「伯和」という字があったという。


「伯」というのは基本的に長男に用いられる字である。



だが上記にもはっきり書かれているように、献帝霊帝の中子であり、少なくとも少帝劉弁よりは下の子である。つまり長男ではない。




これについては、「字を付けた時には長子(生きていた子は一人)だった」とか、「劉弁の存在を否定しようとした」とか、色々理由を考える事ができるだろう。




だが少し待ってほしい。何か、献帝のこの件について考えるに当たって大事な要素を忘れてはいないだろうか。


呉書曰、(韓)馥以書與袁術云、帝非孝靈子、欲依絳・灌誅廢少主、迎立代王故事。
(『三国志』巻八、公孫瓚伝注引『呉書』)



韓馥は袁術に対し「献帝霊帝の子ではないので、実は呂氏の子だった皇帝を廃して文帝を立てた漢の周勃たちと同じ事をしようと思う」という手紙を送っていた、という。




この話が事実なら、献帝は「霊帝の中子ではない」という事になるではないか。



「実の父にとっては長子」という意味で「伯」だったなら、劉弁の存在と矛盾する部分は何もなくなる。


表向きは霊帝の中子、しかし実際には別の誰かの長子、ゆえに「伯」。



誰がいつ付けた字なのかはともかく、そんな意味だったかもしれない。