『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その3

その2の続き。


是時、太后姉子淳于長以材能為九卿、先進在莽右。莽陰求其罪過、因大司馬曲陽侯(王)根白之、長伏誅、莽以獲忠直、語在長傳。
根因乞骸骨、薦莽自代、上遂擢為大司馬。是歳、綏和元年也、年三十八矣。
莽既拔出同列、繼四父而輔政、欲令名譽過前人、遂克己不倦、聘諸賢良以為掾史、賞賜邑錢悉以享士、愈為儉約。
母病、公卿列侯遣夫人問疾、莽妻迎之、衣不曳地、布蔽膝。見之者以為僮使、問知其夫人、皆驚。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


この時、王太后(元后)の姉の子の淳于長がその才能によって九卿になり、王莽以上に出世していた。王莽は密かに彼の罪過を探し、大司馬曲陽侯王根(王莽の叔父)を通じて報告したため、淳于長は誅されることとなり、王莽は実直な忠義者であるという評判を得ることになった。そのあたりは『漢書』淳于長伝を参照せよ。



王根が引退する際、彼は王莽を地位の後継者として勧めたので、成帝はついに王莽を大司馬に抜擢した。この時は綏和元年、王莽三十八歳のことであった。



王莽は同格の者たちから抜け出し、父世代の四人が継承した地位を継ぐこととなったので、名声を先人以上に高めようと思い、節制をいとわず、賢明な人物たちを自分の大司馬府の官吏として招き、恩賞、俸給、領土からの収入は悉く彼らに振る舞い、ますます倹約に励んだ。



王莽の母が病気になった時、大臣や列侯は夫人にお見舞いに行かせたが、その際に出迎えた王莽の妻は裾を引きずらないほど短い衣を着ており、夫人たちは使用人かと思ったほどで、王莽夫人であると知って驚くというありさまであった。


淳于長は王莽の従兄弟にあたる人物で、王鳳の病気を必死に看病したことで王鳳に認められたという、どこかで聞いたような経歴の人物である。



皇帝の側仕えから衛尉にまで出世しており、皇太后王氏(元后)の子世代で見ると一番の有望株、王根の次の執政の最有力候補であったと言えるだろう。



だが廃位されていた元皇后許氏に接近したことが命取りとなり、王莽が王根にチクったことで失脚、最終的には命も落とすこととなった。





かくして王莽は三十八歳にして当時の宰相である三公の一つ「大司馬」となった。



高齢者を敬い、人材としても若さよりはむしろ経験、年齢を重視する傾向が強いこの時代、この年齢で人臣の望みうるほぼ最高の地位になったことは、たぶん珍しいことだったのだろう。



いくら皇太后の近親から選ばれるとはいえ、もっと年長の者はおそらく幾らでもいたはずだからだ。