『三国志』武帝紀を読んでみよう:その26

その25(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/31/000100)の続き。





九年春正月、濟河、遏淇水入白溝以通糧道。
二月、(袁)尚復攻譚、留蘇由・審配守鄴。公進軍到洹水、由降。既至、攻鄴、為土山・地道。武安長尹楷屯毛城、通上黨糧道。
夏四月、留曹洪攻鄴、公自將撃楷、破之而還。尚將沮鵠守邯鄲、又撃拔之。易陽令韓範・渉長梁岐舉縣降、賜爵關内侯。
五月、毀土山・地道、作圍壍、決漳水灌城。城中餓死者過半。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、袁尚を攻撃。というか、袁尚袁譚を攻めに出て行った所に魏武が本拠地の鄴を攻めるという構図。


太祖既圍鄴、破邯鄲、易陽令韓範偽以城降而拒守、太祖遣(徐)晃攻之。晃至、飛矢城中、為陳成敗。範悔、晃輒降之。既而言於太祖曰「二袁未破、諸城未下者傾耳而聽、今日滅易陽
、明日皆以死守、恐河北無定時也。願公降易陽以示諸城、則莫不望風。」太祖善之。
(『三国志』巻十七、徐晃伝)


易陽令韓範の降伏については、魏武の軍に抗戦したが結局降伏した。その攻め手となった徐晃は「易陽を血祭りに上げて滅ぼしたら、今後こちらに降伏する城は無くなるでしょう。降伏を受け入れれば、他の城も風になびくように降伏するでしょう」と進言し、魏武もそれを認めたという。


つまり、徐晃の進言が無ければ殺戮必至であったという事だ。一度降伏した後に歯向かったためかもしれないし、ただ抵抗し続けたためかもしれない。徐晃の発言からすると後者かもしれない。



ちなみに少し後の事になるはずだが、曹仁も似たような事を魏武に進言した事がある。「降伏せず歯向かったら、後から降伏してもその城は終わり」というのは、どうやらその後も魏武の軍の基本戦略だったようだ。




そして鄴には川の水が引き込まれる。中の住民は多分大変。