『三国志』武帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/11/000100)の続き。





會張邈與陳宮叛迎呂布、郡縣皆應。荀彧・程昱保鄄城、范・東阿二縣固守、太祖乃引軍還。布到、攻鄄城不能下、西屯濮陽。太祖曰「布一旦得一州、不能據東平斷亢父・泰山之道乗險要我、而乃屯濮陽、吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰、先以騎犯青州兵。青州兵奔、太祖陳亂、馳突火出、墜馬、燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬、遂引去。未至營止、諸將未與太祖相見、皆怖。太祖乃自力勞軍、令軍中促為攻具、進復攻之、與布相守百餘日。蝗蟲起、百姓大餓、布糧食亦盡、各引去。
秋九月、太祖還鄄城。布到乗氏、為其縣人李進所破、東屯山陽。
於是(袁)紹使人説太祖、欲連和。太祖新失兗州、軍食盡、將許之。程昱止太祖、太祖從之。
冬十月、太祖至東阿。
是歳穀一斛五十餘萬錢、人相食、乃罷吏兵新募者。
陶謙死、劉備代之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武がいない兗州、張邈・陳宮呂布らの反乱が起こる。



魏武から離れなかった3県のうち東阿は程昱の出身地で、当時の県令は棗祗。



また乗氏県で呂布を攻めた李進は、乗氏県を根城にしていたという李典の一族の関係者か。




それにしても、いくらあの呂布が相手とはいえ、青州兵が案外脆いのが気になる。もう少しで魏武再起不能(リタイヤ)で第3部完だったではないか。


実態は数の暴力で略奪を行ってきた烏合の衆という事なのかもしれない。



というか、いくら州牧になってから間もないとはいえ、領域内のほとんどの郡県は州牧の魏武に反旗を翻したという事になる。そもそも魏武の支配が脆いのでは?あるいは、青州黄巾の受け入れは反対者も多かったのかもしれない。



イナゴのせいもあって食料も不足したそうだし、結構ギリギリである。ぶっちゃけ、これでは本拠としての体を成していないのでは・・・?




そして陶謙はひっそりと死に、劉備が後釜となる。黄巾に攻められて死んだ州牧に代わった魏武、黄巾みたいな連中に攻められた後に死んだ州牧に代わった劉備。ちょっと似ている。