河東人同士の争い

初、武帝欲為太子取衛瓘女、元后納賈郭親黨之説、欲婚賈氏。帝曰「衛公女有五可、賈公女有五不可。衛家種賢而多子、美而長白。賈家種妒而少子、醜而短鄢。」元后固請、荀邈・荀勖並稱充女之賢、乃定婚。
(『晋書』巻三十一、惠賈皇后伝)


晋の武帝司馬炎は息子である太子(恵帝)のために重臣衛瓘の娘を妃に選ぼうとしたが、武帝の皇后揚氏は賈逵の息子賈充と郭淮の姪を両親に持つ賈氏を推した。






衛瓘、賈充ともに本貫は河東ということになるので、同郷人同士が次期皇后争いをしていたということなのだなあ。




武帝の司馬氏は河内、楊皇后は弘農、郭淮は太原と、三輔や并州といった方面にルーツがある人物が中心となって話が進んでいる。




魏の予州人にあらざれば・・・的な感じから脱却というか逆転しているのかもしれない。