『漢書』成帝紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180327/1522076882)の続き。




二年春正月、罷雍五畤。
辛巳、上始郊祀長安南郊。詔曰「乃者徙泰畤・后土于南郊・北郊、朕親飭躬、郊祀上帝。皇天報應、神光並見。三輔長無共張繇役之勞、赦奉郊縣長安・長陵及中都官耐罪徒。減天下賦錢、算四十。」
閏月、以渭城延陵亭部為初陵。
二月、詔三輔内郡舉賢良方正各一人。
三月、北宮井水溢出。
辛丑、上始祠后土于北郊。
丙午、立皇后許氏。
罷六廐・技巧官。
夏、大旱。
東平王宇有罪、削樊・亢父縣。
秋、罷太子博望苑、以賜宗室朝請者。減乗輿廐馬。
(『漢書』巻十、成帝紀

建始2年。



天地の祭祀を長安で行う事によって民の徴発を減らせた、めでたい、ということらしい。



民の不満が高まっていたとか、朝廷にとっても経費削減が出来たとか、そういった事情も絡んでいるのかもしれない。





皇后許氏が立てられる。

孝成許皇后、大司馬車騎將軍平恩侯嘉女也。元帝悼傷母恭哀后居位日淺而遭霍氏之辜、故選嘉女以配皇太子。
初入太子家、上令中常侍黄門親近者侍送、還白太子懽說状、元帝喜謂左右「酌酒賀我!」左右皆稱萬歳。久之、有一男、失之。及成帝即位、立許妃為皇后、復生一女、失之。
・・・(中略)・・・
后聰慧、善史書、自為妃至即位、常寵於上、後宮希得進見。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成許皇后)


この許皇后は宣帝の許皇后(成帝の実の祖母)の親戚である(父の許嘉は宣帝許皇后の従兄弟)。



皇太子妃(つまり正妻である)の時からずっと成帝の寵愛を受け、後宮では他の女性はほとんど指名されなかった、という。