漢の漢たちを語る2「19年の抑留生活を経て」:常恵

漢の使節団として北の異民族匈奴へ向かうが、情勢が変わり匈奴に拘束され、そのまま監禁生活を送る羽目になること19年・・・。



蘇武のことかって?蘇武もそうだが、今回の主役は「常恵」。





常恵は貧しい家の出で、人員募集に応じて参加した蘇武らの使節団の一員でしかなかったのだが、当然一緒に拘束され、途中で蘇武とは別々になったが同じ期間拘束され続けた。


數月、昭帝卽位。數年、匈奴與漢和親。漢求武等、匈奴詭言(蘇)武死。後漢使復至匈奴、 常惠請其守者與倶、得夜見漢使、具自陳道、教使者謂單于、言天子射上林中、得雁、足有係帛書、言武等在某澤中。使者大喜、如惠語以讓單于。單于視左右而驚、謝漢使曰「武等實在。」
(『漢書』巻五十四、蘇武伝)

そんな彼らの抑留生活が終わりを告げたのは、常恵が漢の使者に対して「蘇武さんはホントは生きてますよ。皇帝陛下が上林苑で仕留めた雁の足に手紙が付けられててわかった、と単于に言って問い詰めてください」と伝え、そこで単于が自白したからだ。


そう、蘇武が助かったのは常恵のお蔭だったのである。




漢に戻ってから常恵が西域への使者として使われ、更には西域の烏孫の兵を監督する重責を担うことになったのは、19年拘束の労に報いるという意味もあったのだろうし、蘇武と比べて若かったからというのもあるのだろうが、もしかしたら「一番使える奴」と評価されたからなのかもしれない。


(本始二年)匈奴數侵邊、又西伐烏孫烏孫昆彌及公主因國使者上書、言昆彌願發國精兵撃匈奴、唯天子哀憐、出兵以救公主。
秋、大發興調關東輕車銳卒、選郡國吏三百石伉健習騎射者、皆從軍。御史大夫田廣明為祁連將軍、後將軍趙充國為蒲類將軍、雲中太守田順為虎牙將軍、及度遼將軍范明友、前將軍韓筯、凡五將軍、兵十五萬騎、校尉常惠持節護烏孫兵、咸撃匈奴
三年春正月癸亥、皇后許氏崩。
戊辰、五將軍師發長安
夏五月、軍罷。祁連將軍廣明、虎牙將軍順有罪、下有司、皆自殺。校尉常惠將烏孫兵入匈奴右地、大克獲、封列侯。
(『漢書』巻八、宣帝紀


漢が十五万騎という大戦力を動員した匈奴との戦いで、最も功績があったのは烏孫の兵を率いた常恵であった。

彼はこの功績で列侯となったのである。



常恵は蘇武の爵位を上回ってしまったのであった。



後代蘇武為典屬國、明習外國事、勤勞數有功。
甘露中、後將軍趙充國薨、天子遂以惠為右將軍、典屬國如故。
宣帝崩、惠事元帝、三歲薨、諡曰壯武侯。傳國至曾孫、建武中乃絶。
(『漢書』巻七十、常恵伝)

常恵はその後典属国、右将軍と出世を重ねた。

丞相を除けば人臣が望みうるほとんど最高の地位と言っていいだろう。



彼は19年間抑留されたお蔭で、貧しい家の子から最高級の爵位と最高級の官位を手に入れたのである。


エリート街道を歩んでいたと言ってもいい蘇武が19年抑留の間に家族離散の憂き目に遭ったこととはあまりにも対照的だ。




常恵はもしかすると前漢でも最大の成り上がり者、出世物語の主人公なのかもしれない。