『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180114/1515855737)の続き。




始元元年春二月、黄鵠下建章宮太液池中。公卿上壽。賜諸侯王・列侯・宗室金錢各有差。
己亥、上耕于鉤盾弄田。
益封燕王・廣陵王及鄂邑長公主各萬三千戸。
夏、為太后起園廟雲陵。
益州廉頭・姑虵・牂柯談指・同並二十四邑皆反。遣水衡都尉呂破胡募吏民及發犍為・蜀郡犇命撃益州、大破之。
有司請河内屬冀州、河東屬并州
秋七月、赦天下、賜民百戸牛酒。
大雨、渭橋絶。
八月、齊孝王孫劉澤謀反、欲殺青州刺史雋不疑、發覺、皆伏誅。遷不疑為京兆尹、賜錢百萬。
九月丙子、車騎將軍日磾薨。
閏月、遣故廷尉王平等五人持節行郡國、舉賢良、問民所疾苦・冤・失職者。
冬、無冰。
(『漢書』巻七、昭帝紀

始元元年。


帝崩、太子立、是為孝昭帝、賜諸侯王璽書。
(燕王)旦得書、不肯哭、曰「璽書封小。京師疑有變。」遣幸臣壽西長・孫縱之・王孺等之長安、以問禮儀為名。王孺見執金吾廣意、問帝崩所病、立者誰子、年幾歳。廣意言待詔五莋宮、宮中讙言帝崩、諸將軍共立太子為帝、年八九歳、葬時不出臨。歸以報王。王曰「上棄羣臣、無語言、蓋主又不得見、甚可怪也。」
復遣中大夫至京師上書言「竊見孝武皇帝躬聖道、孝宗廟、慈愛骨肉、和集兆民、徳配天地、明並日月、威武洋溢、遠方執寶而朝、筯郡數十、斥地且倍、封泰山、禪梁父、巡狩天下、遠方珍物陳于太廟、徳甚休盛、請立廟郡國。」奏報聞。
時大將霍光秉政、襃賜燕王錢三千萬、益封萬三千戸。旦怒曰「我當為帝、何賜也!」遂與宗室中山哀王子劉長・齊孝王孫劉澤等結謀、詐言以武帝時受詔、得職吏事、修武備、備非常。
(『漢書』巻六十三、燕剌王旦伝)

武帝の皇子で生きていたのは燕王旦、広陵王胥、そして昭帝であった。特に燕王は年齢から言っても能力から言っても自分が次の皇帝であると信じて疑わなかったようで、父が老人になってから生まれたという幼い末弟が即位したと聞いて不満と不信を隠そうともしなかった。


武帝崩、昭帝初立、旦果作怨而望大臣。自以長子當立、與齊王子劉澤等謀為叛逆、出言曰「我安得弟在者!今立者乃大將軍子也。」欲發兵。
(『史記』巻六十、三王世家、褚先生補)


史記』を継いだ褚先生の記事によると、燕王は「今皇帝に立てられているのは大将軍の子である」とまで言っていたという。

真偽のほどは確認しようがないが、武帝が昭帝を儲けた時の年齢からすれば怪しむのももっともである。また、幽州にいた燕王は実際に昭帝誕生をよく知らなかったという可能性もあったのかもしれない。



また、上記列伝によると、青州での反乱事件も燕王旦が裏で操っていたということらしい。


斉の孝王というのは高祖劉邦の長男劉肥の孫に当たり、もともと斉国は劉肥の血筋の国であった。その孫には、奪われた領土を自分たちの手に取り戻そうという想いがあったということなのだろう。





そして金日磾が死去。



実直で忠誠心篤い人物であったとされ、武帝によって幼帝の補佐とされた三人の中で安全弁的な役割も期待されたであろう人物が亡くなったということである。