『漢書』武帝紀を読んでみよう:その25

その24(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171230/1514560159)の続き。




太初元年冬十月、行幸泰山。
十一月甲子朔旦、冬至、祀上帝于明堂。
乙酉、柏梁臺災。
十二月、襢高里、祠后土。東臨勃海、望祠蓬萊。
春還、受計于甘泉。
二月、起建章宮。
夏五月、正暦、以正月為歳首。色上黄、數用五、定官名、協音律。
遣因杅將軍公孫敖築塞外受降城。
秋八月、行幸安定。
遣貳師將軍李廣利發天下讁民西征大宛。
蝗從東方飛至敦煌
二年春正月戊申、丞相慶薨。
三月、行幸河東、祠后土。令天下大酺五日、膢五日、祠門戸、比臘。
夏四月、詔曰「朕用事介山、祭后土、皆有光應。其赦汾陰・安邑殊死以下。」
五月、籍吏民馬、補車騎馬。
秋、蝗。
遣浚稽將軍趙破奴二萬騎出朔方撃匈奴、不還。
冬十二月、御史大夫兒𥶡卒。
(『漢書』巻六、武帝紀)

太初元年、2年。




この年は大きな変革の年となった。



というのは、これまでろくに説明していなかったが漢王朝は(秦以来)一年の最初の月を「10月」と定めていた(つまり、9月から10月になると同時に年が1つ増える。逆に12月から1月になっても年は増えない)のだが、この年を機に正月を一年の最初の月としたのである。




一年が正月から始まるというのも固定観念で、漢王朝においてはむしろ後からそうなったという衝撃の展開。




また、これまで漢王朝五行思想的には「水徳」と自らを規定していたのだが、ここで「土徳」であると宣言した。実はこれまでも土徳に直そうという動きはあった(たとえば賈誼はそう考えていた)のだが、ここで正式に改まった。



漢は「火徳」だったのではないか、と疑問に思った人もいるかもしれないが、そのように変わるのはまた後の話である。




李廣利、女弟李夫人有寵於上、産昌邑哀王。
太初元年、以廣利為貳師將軍、發屬國六千騎及郡國惡少年數萬人以往、期至貳師城取善馬、故號「貳師將軍」。
(『漢書』巻六十一、李広利伝)

李広利登場。



彼は妹が武帝の寵姫*1というどこかで聞いたような経歴の将軍である。



「貳師将軍」というのは彼の最終目的である大宛の「汗血馬」がいる貳師城を落とせ、という意味なのだそうだ。



騎兵六千はともかく、数万の「讁民」「悪少年」というのは、具体的にどんな者たちかはっきりとは分からないがとにかく練度や士気に問題がありそうな感じしかしない。

*1:ちなみに、李夫人よりも李広利よりも先に彼らの兄弟李延年が最初に寵愛を受けている。李広利が一番最後なのである。