『漢書』武帝紀を読んでみよう:その26

その25(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171231/1514646517)の続き。





三年春正月、行東巡海上
夏四月、還、修封泰山、襢石閭。
遣光祿勳徐自為築五原塞外列城、西北至盧朐、游撃將軍韓説將兵屯之。強弩都尉路博紱築居延。
秋、匈奴入定襄・雲中・殺略數千人、行壞光祿諸亭障。又入張掖・酒泉、殺都尉。
四年春、貳師將軍廣利斬大宛王首、獲汗血馬來。作西極天馬之歌。
秋、起明光宮。
冬、行幸回中。
徙弘農都尉治武關、税出入者以給關吏卒食。
(『漢書』巻六、武帝紀)


太初3年、4年。



貳師將軍與左右計「至郁成尚不能舉、況至其王都乎?」引而還。往來二歳、至敦煌、士不過什一二。使使上書言「道遠、多乏食、且士卒不患戰而患飢。人少、不足以拔宛。願且罷兵、益發而復往。」天子聞之、大怒、使使遮玉門關、曰「軍有敢入、斬之。」貳師恐、因留屯敦煌
其夏、漢亡浞野之兵二萬餘於匈奴、公卿議者皆願罷宛軍、專力攻胡。天子業出兵誅宛、宛小國而不能下、則大夏之屬漸輕漢、而宛善馬絶不來、烏孫・輪臺易苦漢使、為外國笑。乃案言伐宛尤不便者訒光等。赦囚徒扞寇盜、發惡少年及邊騎、歳餘而出敦煌六萬人、負私從者不與。牛十萬、馬三萬匹、驢橐駝以萬數齎糧、兵弩甚設。天下騷動、轉相奉伐宛、五十餘校尉。
(『漢書』巻六十一、李広利伝)

李広利は一度は大宛攻略を断念したが、武帝は戻ることを許さなかった。兵を増強して最終的には漢王朝のプライドのために大宛を破ったのである。



李広利は多大な被害を出しつつ戻ってきたが、一応は最大の目的であるところの汗血馬を獲得する事には成功した。士気の低そうな軍を率いた素人同然の将軍だった割には健闘した、という評価もできるかもしれない。