情けは人のためならず

文・景間、(王)安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。
武帝繡衣御史、逐捕魏郡羣盜堅盧等黨與、及吏畏懦逗遛當坐者、翁孺皆縱不誅。
它部御史暴勝之等奏殺二千石、誅千石以下、及通行飲食坐連及者、大部至斬萬餘人、語見酷吏傳。
翁孺以奉使不稱免、嘆曰「吾聞活千人有封子孫、吾所活者萬餘人、後世其興乎!」
翁孺既免、而與東平陵終氏為怨、乃徙魏郡元城委粟里、為三老、魏郡人徳之。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

王莽らの先祖である王賀は、漢の武帝の時に魏郡で発生した群盗とその関係者、および群盗に適切に対処できなかった官吏たちを取り締まる使者となったが、許して誅殺しなかった。



王賀はそういった者の取り締まり、誅殺を任務としていたので、職務怠慢とされて罷免された。






だが、王賀はその後地元の人間に恨まれることとなり、危険を感じて故郷を離れることにした。



そこで彼が移住したのは、先に多くの人を助けた魏郡だった。



王賀はいわば恩を施した人が山ほどいる郡に行ったわけだから、魏郡の人々が彼を受け入れ重んじたのも当然と言えよう。




王賀は職務怠慢とも言える不作為で官職は失ったが、地元から逃げざるを得ないという不測の事態になってその不作為のお蔭で助かったのである。




「情けは人のためならず」ということを体現した出来事であると言えよう。





しかし、そんな人徳の士が何で地元の人間から恨みを買って逃げなければいけなくなったのか、というのはちょっと気になるところだ。