『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その11

その10の続き。


地皇元年正月乙未、赦天下。
下書曰「方出軍行師、敢有趨讙犯法者、輒論斬、毋須時、盡歳止。」於是春夏斬人都市、百姓震懼、道路以目。
二月壬申、日正鄢。莽惡之、下書曰「乃者日中見昧、陰薄陽、鄢氣為變、百姓莫不驚怪。兆域大將軍王匡遣吏考問上變事者、欲蔽上之明、是以適見于天、以正于理、塞大異焉。」
莽見四方盜賊多、復欲厭之、又下書曰「予之皇初祖考黄帝定天下、將兵為上將軍、建華蓋、立斗獻、内設大將、外置大司馬五人、大將軍二十五人、偏將軍百二十五人、裨將軍千二百五十人、校尉萬二千五百人、司馬三萬七千五百人、候十一萬二千五百人、當百二十二萬五千人、士吏四十五萬人、士千三百五十萬人、應協於易『弧矢之利、以威天下』。予受符命之文、稽前人、將條備焉。」
於是置前後左右中大司馬之位、賜諸州牧號為大將軍、郡卒正・連帥・大尹為偏將軍、屬令長裨將軍、縣宰為校尉。
乗傳使者經歴郡國、日且十輩、倉無見穀以給、傳車馬不能足、賦取道中車馬、取辦於民。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

  • 地皇元年(紀元20年)

地皇元年正月乙未、天下に恩赦令を出し、命令を下した。「これから軍が出発する。その際に小走りで通る時にやかましくするなどの違反があったら、すぐに処刑とし、待つことはしないが、この年が終わったら止めることとする」
これによって春や夏でも人が市場で処刑され、人々は震えあがって道を歩いていてもお互い目配せするようになった。


二月壬申、太陽が黒々と暗くなった。王莽は命令を下した。「先に日中に暗くなり、陰の気が陽の気を薄め、黒い気が異変を起こし、民は驚き怪しまない者はいなかった。兆域大将軍王匡は官吏を遣わしてこの異変を報告した者を取り調べたところ、天子の目を覆い隠そうとした者があって天がその譴責をおこない、それを正して大きな異変の発生を防ごうとしたものであった」



王莽は四方に群盗が多いことを見て、それを鎮圧しようと思い、また命令を下した。
「予の偉大なる先祖である黄帝は兵を率いて上将軍となり、花の天蓋を建て、北斗七星の飾りを立て、内には大将を置き、外には大司馬を五人、大将軍を二十五人、偏将軍を百二十五人、裨将軍を千二百五十人、校尉を一万二千五百人、司馬を三万七千五百人、候を十一万二千五百人、当百を二十二万五千人、士吏を四十五万人、士を千三百五十万人置き、『易経』の「弓矢の利益は、天下に武威を示すことにある」という言葉に応じたのである。予は予言の言葉を受け、先人の例に学んで分類して備えることとする」
そこで前・後・左・右・中大司馬の位を置き、州牧に大将軍の号を賜い、郡の卒正・連率・大尹は偏将軍とし、県の属令・長は校尉とした。



駅伝の馬車に乗って各地へ行く皇帝の使者は日に十組にもなろうとし、倉庫にも使者に支給する穀物が無く、馬車も不足したため、道中で馬車を徴発し、民から取り上げるようになった。


漢代、基本的に犯罪者の処刑は冬にすることになっていた。陰陽の気とかそういった思想によるものらしいが、少なくとも春や夏にはしないのが通例であったらしい。


というわけで、ここの王莽の措置は待つことなく悪・即・斬するよ、ということであり、厳しさに震え上がる者が多かったであろうことはもちろん、陰陽の調和を乱すのではないか、という意味でも震え上がった者が少なくなかったのではなかろうか。






王莽、大司馬や大将軍を増やすの巻。


新末・後漢初期も各勢力で○○大将軍が多く見られたように思われるのだが、敵である王莽が大将軍だらけなので、それと同等以上の称号を名乗ろうとするとみんな大将軍になる、ということなのかもしれない。