李広利と李陵

天漢二年、貳師將三萬騎出酒泉、撃右賢王於天山。召(李)陵、欲使為貳師將輜重。陵召見武臺、叩頭自請曰「臣所將屯邊者、皆荊楚勇士奇材劍客也、力扼虎、射命中、願得自當一隊、到蘭干山南以分單于兵、毋令專郷貳師軍。」
(『漢書』巻五十四、李陵伝)

かの李陵は貳師将軍李広利の輜重隊として従軍するところを武帝に対して進言し、自ら歩兵を以て匈奴に当たると申し出た。



これが結局は李陵が匈奴に降る原因となったのは有名なことだろう。




無謀にも思える進言を李陵がした裏には、武帝の寵臣(寵姫の兄)である李広利の下に付くのを良しとしなかったという点があったのかもしれないが、もしかしたらもう一つ裏があったかもしれない。





(李)敢有女為太子中人、愛幸。敢男禹有寵於太子、然好利、亦有勇。
(『漢書』巻五十四、李広伝)


李陵の祖父に当たる李広の子の一人が李敢であるが、その娘は武帝の皇太子に寵愛され、その兄弟である李禹も皇太子に引き立てられたのだという。



李陵はこの李禹らの従兄弟であるから、李陵もおそらくは皇太子の側に取り込まれていたことだろう。





老齢の皇帝の寵臣(外戚)である李広利と、近いうちに王朝を継ぐ可能性が高い皇太子の寵臣(外戚)である李陵、という構図になっているではないか。



李広利と李陵は、武帝の寵姫と皇后(皇太子の実母)の間の一種の代理戦争をしていた関係だったのかもしれない。