李当戸の挑戦

(李)廣子三人、曰當戸・椒・敢、為郎。
天子與韓嫣戲、嫣少不遜、當戸撃嫣、嫣走。於是天子以為勇。
(『史記』巻一百九、李将軍列伝)


李広の子の李当戸は、武帝と仲良くしていた(意味深)韓嫣を攻撃したが、それを見た武帝は李当戸を「勇」であると考えたという。




韓嫣は武帝の寵愛を受けた人物であり、それを攻撃するというのはいくら彼に不遜の行いがあったとはいえ少々勇気が必要だった事だろう。

今天子中寵臣、士人則韓王孫嫣、宦者則李延年。嫣者、弓高侯孼孫也。今上為膠東王時、嫣與上學書相愛。及上為太子、愈益親嫣。嫣善騎射、善佞。上即位、欲事伐匈奴、而嫣先習胡兵、以故益尊貴、官至上大夫、賞賜擬於鄧通。時嫣常與上臥起。
(『史記』巻一百二十五、佞幸列伝、韓嫣)

だが、それ以上に韓嫣はあの韓信*1の子孫であり、しかも本場匈奴仕込みの騎射が得意という、李広親子の何倍も実績とネームバリューがある武門の家の子なのである。



となると、実は李当戸による韓嫣攻撃というのは、「寵愛を笠に着た佞臣をどやしつけた」ではなく、「地位も寵愛もある上に武芸でも定評があるガチの貴公子に、かなりの実力を認められてはいるが実績の足りない李氏の子が果敢に挑んだ」という構図なのだ。




武芸に優れていた韓嫣を武芸で上回っている事を見せつけたからこそ、武帝は寵臣を攻撃した李当戸を不問にしただけでなく「勇」を評価した、という事なのではなかろうか。

*1:いわゆる韓王信。