而李夫人産昌邑王、(李)延年繇是貴為協律都尉、佩二千石印綬、而與上臥起、其愛幸埒韓嫣。久之、延年弟季與中人亂、出入驕恣。及李夫人卒後、其愛㢮、上遂誅延年兄弟宗族。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、李延年)
李広利兄弟は武帝の寵姫李夫人の死後に李広利を除いて族滅され、李広利は匈奴に降伏した。
だが、このあたりの順番についてちょっと面白い話があった。
李夫人蚤卒、其兄李延年以音幸、號協律。協律者、故倡也。兄弟皆坐姦、族。是時其長兄廣利為貳師將軍、伐大宛、不及誅、還、而上既夷李氏、後憐其家、乃封為海西侯。
(『史記』巻四十九、外戚世家)
『史記』外戚世家によると、李さん一家の経緯は、「李夫人の死」→「李延年ら誅殺」→「李広利が大宛から帰還」→「李広利が列侯に」という順番らしい。
李広利が「勝つまで戻ってくるな。戻ってきたら殺す」とまで武帝に言われて大宛を何とかして戻ってきてみたら、一族は自分以外全滅していた、という事か・・・。
で、今度は匈奴と戦っている間に自分自身の家族が捕まって処刑待ちになる、という・・・。
李延年の方は李広利が左丞相劉屈氂らと呪詛の疑いをかけられた時には、とっくに処刑されていたわけか。
李広利は思った以上に激動の人生歩んでいるなあ。