漢の使節団として北の異民族匈奴へ向かうが、情勢が変わり匈奴に拘束され、そのまま監禁生活を送る羽目になること19年・・・。
蘇武のことかって?
そうです。
漢の武帝の時代、蘇武は匈奴への使者となったが、情勢が変わり匈奴から帰ることができず延々と抑留されることとなった。
匈奴単于になんだか見込まれてしまった蘇武は単于からの度重なる降伏勧告の誘惑をはねのけ、彼の心をくじこうとする策略にも耐えた。
それが19年にも及び、最後には漢への帰還を果たし、彼はその忠節を讃えられた・・・というのは割と知られている話であるから詳しくは語らない。
今回取り上げるのは、その忠節の裏で彼が失ったものについてである。
久之、單于使(李)陵至海上、為(蘇)武置酒設樂、因謂武曰「單于聞陵與子卿素厚、故使陵來説足下、虚心欲相待。終不得歸漢、空自苦亡人之地、信義安所見乎?前長君為奉車、從至雍棫陽宮、扶輦下除、觸柱折轅、劾大不敬、伏劍自刎、賜錢二百萬以葬。孺卿從祠河東后土、宦騎與黄門駙馬爭舩、推墮駙馬河中溺死、宦騎亡、詔使孺卿逐捕不得、惶恐飲藥而死。來時、大夫人已不幸、陵送葬至陽陵。子卿婦年少、聞已更嫁矣。獨有女弟二人、両女一男、今復十餘年、存亡不可知。人生如朝露、何久自苦如此!陵始降時、忽忽如狂、自痛負漢、加以老母繫保宮、子卿不欲降、何以過陵?且陛下春秋高、法令亡常、大臣亡罪夷滅者數十家、安危不可知、子卿尚復誰為乎?願聽陵計、勿復有云。」武曰「武父子亡功徳、皆為陛下所成就、位列將、爵通侯、兄弟親近、常願肝腦塗地。今得殺身自效、雖蒙斧鉞湯鑊、誠甘樂之。臣事君、猶子事父也、子為父死亡所恨。願勿復再言。」
(『漢書』巻五十四、蘇武伝)
蘇武の説得に来たかつての友人(あの)李陵は彼に対して言った。
「君の兄はかつて皇帝の車を破損した罪で不敬罪とされて自殺してしまったではないか。
君の弟は逃亡者捕縛に失敗した責めを恐れるあまり自殺してしまったではないか。
母上も既にお亡くなりになった。
君の奥さんは既に別の男と再婚したと聞くぞ。
君の妹たちや娘二人息子一人は今やどうなっているかも分からぬ。
人生は朝露のごとく儚いものだというのに、どうしていたずらに苦しむのだ?」
蘇武の一家は既に離散していた。
兄弟は漢王朝に真面目に仕えた結果、どちらも大罪とも思えぬ罪で自殺している。
その上、妻は既に別の男と結婚していたという。
おそらく、蘇武が消息不明になったためだろう。
生死がはっきり確認できていなかったとしても、親も他の兄弟も全滅している蘇家に独り残されて家を守り続けるというのは無理な話であるから、妻にとっては仕方ないことだとは思う。
だが、それでも蘇武にとってはやはり酷な話ではないか。
その上、妹や子供たちはどうなっているかも分からないという。
蘇武は、漢王朝への、皇帝への忠節の裏で、戻るべき家を失っていたのである。
そして、それでも蘇武は匈奴に降伏しない。
昭帝立、大將軍霍光・左將軍上官桀輔政、素與(李)陵善、遣陵故人隴西任立政等三人倶至匈奴招陵。
(『漢書』巻五十四、李陵伝)
それだけではない。
李陵は蘇武とは同じ侍中であり、その時からの友人であった。
そして、李陵は昭帝の時に権力を握った大将軍霍光・左将軍上官桀とも友人であった。この二人も武帝時代は侍中である。
つまり、蘇武、李陵、霍光、上官桀は全員武帝の侍中であり、おそらく全員がお互いに友人関係なのである。
大学の同窓生とか、同期入社とか、そういった関係なのだろう。
漢に残った霍光、上官桀が漢王朝の権力者となった。
しかし、誰よりも苦しい目に遭い続けているはずの蘇武だけは苦しいままなのである。
蘇武の心中いかばかりか。
しかし、それでも蘇武の心は折れないのだ。
(蘇)武來歸明年、上官桀子安與桑弘羊及燕王・蓋王謀反。武子男元與安有謀、坐死。
(『漢書』巻五十四、蘇武伝)
蘇武の受難は漢の戻ってからも続く。
彼が漢に置いて行った消息不明の息子、蘇元。
彼は上官桀らの一味となっており、上官桀が霍光排除を計画して失敗した際、上官桀らと共に捕まり死ぬこととなってしまったのだ。
悲惨。あまりにも蘇武にとって惨い話である。
もしかしたら蘇武にとって最後の希望だったかもしれない息子まで、漢王朝は奪っていったのである。
全ての誘惑、あらゆる苦難を退けて漢王朝への忠節を貫いた男。
漢王朝も、妻も、彼に報いることはなかったし待っていてもくれなかった。
哀しい話である。
(蘇)武年老、子前坐事死、上閔之、問左右「武在匈奴久、豈有子乎?」武因平恩侯自白「前發匈奴時、胡婦適産一子通國、有聲問來、願因使者致金帛贖之。」上許焉。後通國隨使者至、上以為郎。
(『漢書』巻五十四、蘇武伝)
「胡婦適産一子」あっ・・・(察し)
蘇武は匈奴で現地妻作ってて子供も産ませてたそうなので、良く考えなくても妻についてはお互い様かもねえ・・・。