皇太子の死

景耀六年冬、蜀亡。咸熙元年正月、鍾會作亂於成都、(劉)璿為亂兵所害。
(『三国志』巻三十四、後主太子璿伝)

以前も記事にしたかもしれないし、してないかもしれない。



とにかく一応書いておこう。





劉禅の皇太子である劉璿は鍾会姜維による内乱で兵士に殺害されたという。




だが、この内乱において兵士の白刃が降伏した皇帝劉禅や他の皇子に及んだという記録は無く、蜀漢の皇室の中では皇太子だけが殺されたことになる。




ということは、皇太子だけが特に危険なところ、すなわち姜維たちの近くにいたということではなかろうか。




なぜ皇太子だけが姜維鍾会の近くにいたのかということを考えると、蜀漢将兵の支持を得るために鍾会たちが皇太子を利用しようとした、という可能性が高いのではなかろうか。



最終的には、姜維は降伏して廃位された形になる劉禅に代えて皇太子を皇帝に立てようとしたのだと思う。