郡王と県公

以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣以顯歸命之寵。
(『三国志』巻二十八、鄧艾伝)

昨日の引用の一部だが、よくよく見ると凄い事が書かれている。



後漢皇帝献帝が譲位後に与えられたのが山陽公(県公)。



ここで鄧艾が劉禅に与えるべきと主張しているのが扶風王で、劉禅の子たちには扶風国(郡)内の県を与えて公にするよう述べている。つまり県公。



山陽公は爵位の格が「劉禅の子」と同じにされそうになっている。




もちろん劉禅を扶風王にするとしたら山陽公も格上げする可能性があるだろうが、実のところ劉禅を就けるべきとされる郡王というのは当時の魏では最高位(10郡の公である晋公を除けば)と言っていいので、山陽公が扶風王劉禅と同格以下になるのは確実である。




一州を実効支配していた勢力の君主が降伏してきたから厚遇するという目的があるのだろうが、蜀漢劉備)と後漢献帝)という二つの漢の関係に一石を投じてしまうことになりかねない。



というか、献帝から禅譲を受けたという事が現在の地位の拠り所であるはずの魏の正統性に一石を投じてしまう。蜀漢の方が同格以上に扱われているという事を、王朝の正統は蜀漢にあり、魏には移っていないという意見表明と読み取ってしまう者が出現するかもしれないという事だ。




この面で、鄧艾の発言は当時の魏と晋にとってかなり危険を孕んだ内容だったのではなかろうか。