門を守りし者たち

世語曰、(満)偉字公衡。偉子長武、有寵風、年二十四、為大將軍掾。高貴郷公之難、以掾守閶闔掖門、司馬文王弟安陽亭侯幹欲入。幹妃、偉妹也。長武謂幹曰「此門近、公且來、無有入者、可從東掖門。」幹遂從之。文王問幹入何遲、幹言其故。參軍王羨亦不得入、恨之。既而羨因王左右啟王、満掾斷門不内人、宜推劾。壽春之役、偉從文王至許、以疾不進。子從、求還省疾、事定乃從歸、由此内見恨。收長武考死杖下、偉免為庶人。時人寃之。 偉弟子奮、晉元康中至尚書令・司隸校尉。寵・偉・長武・奮、皆長八尺。
(『三国志』巻二十六、満寵伝注引『世語』)

高貴郷公欲為變時、大將軍掾孫佑等守閶闔門。帝弟安陽侯榦聞難欲入、佑謂榦曰「未有入者、可從東掖門。」及榦至、帝遲之、榦以状白、帝欲族誅佑。(荀)勖諫曰「孫佑不納安陽、誠宜深責。然事有逆順、用刑不可以喜怒為輕重。今成倅刑止其身、佑乃族誅、恐義士私議。」乃免佑為庶人。
(『晋書』巻三十九、荀勖伝)


魏の高貴郷公の変の際、大将軍司馬昭の弟の司馬幹は宮殿へ急ごうと近道となる閶闔門を通ろうとしたが、門を守る大将軍掾に阻止されて遠回りを余儀なくされたという。




その大将軍掾はその後処罰の対象となったわけだが、上記の記事は明らかに同じ件が発端となっているのに処罰された者が違っている。






思うに、これはどちらか一方が誤っているのではなく、閶闔門を守って司馬幹を阻止した者たちの中に満長武と孫佑との両方がおり、満長武は元から満氏が司馬昭らの不興を買っていたことが災いし合わせて一本で厳罰となり、孫佑にはそういったことがなかったために軽く済んだ、ということなのではないかと思う。


それはそれで感情に任せて刑罰の軽重を決めているようにも思えるが。