高貴郷公の評価

頃之、代王基都督揚州諸軍事。(石)苞因入朝。當還、辭高貴郷公、留語盡日。既出、白文帝曰「非常主也。」數日而有成濟之事。後進位征東大將軍、俄遷驃騎將軍。
(『晋書』巻三十三、石苞伝)

正元初、石苞來朝、盛稱高貴郷公、以為魏武更生。時聞者流汗沾背、(華)表懼禍作、頻稱疾歸下舍、故免于大難。
(『晋書』巻四十四、華表伝)

石苞は魏の傀儡皇帝高貴郷公のことを「尋常な主君ではない」と最高権力者司馬昭に語り、その数日後に高貴郷公は死ぬこととなった、と言う。



またその一方、石苞は高貴郷公の即位直後に「魏武帝曹操)の生まれ変わりだ」と評していて、それを聞いた者たちは冷や汗でびっしょりになり、侍中の華表は災いが身に降りかかるのを避けるため、敢えて病気休暇を取ることで難を逃れたという(高貴郷公が暴発した時、ほかの侍中は大変な目に遭っている)。




これらの記事を素直に読むと、石苞は高貴郷公即位直後から彼の能力を高く評価し、数年して「非常の主」とまで評価したのだということになる。





石苞は高貴郷公に素直に期待したのか、それとも当初はともかく最終的には司馬氏の天下を目指す上での障害と感じたのか、どちらなのだろうか。




なんにせよ、高貴郷公が魏武帝の再来とも言われるほどの英邁な君主であると認識されたことこそが命取りとなったのだ、と解釈されているようだ。