孝仁皇后の罪と罰

及竇太后崩、始與朝政、使帝賣官求貨、自納金錢、盈滿堂室。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、孝仁董皇后)

(何)進與三公及弟車騎將軍苗等奏「孝仁皇后使故中常侍夏綠・永樂太僕封諝等交通州郡、辜較在所珍寶貨賂、悉入西省。蕃后故事不得留京師、輿服有章、膳羞有品。請永樂后遷宮本國。」奏可。何進遂舉兵圍驃騎府、收(董)重、重免官自殺。后憂怖、疾病暴崩、在位二十二年。民輭歸咎何氏。喪還河輭、合葬慎陵。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、孝仁董皇后)

霊帝の生母である孝仁皇后董氏は、売官を霊帝に勧めた人物とされており、霊帝死後にはそのことの責任を追及されて都から放逐されることとなり、最終的には「急病」で死亡した。




売官制度を憎み、朝廷を正常化しなければならないと思っている者にとって、孝仁皇后董氏は元凶のようなものなのであろう。





中常侍封諝・徐奉事獨發覺坐誅、帝因怒詰讓等曰「汝曹常言黨人欲為不軌、皆令禁錮、或有伏誅。今黨人更為國用、汝曹反與張角通、為可斬未?」 皆叩頭云「故中常侍王甫・侯覽所為。」帝乃止。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝)

なお余談だが、董氏を責める上奏の中で董氏のために働いた宦官封諝黄巾の乱の際に黄巾に内通していたことが発覚して霊帝がガチギレしたといういわくつきの宦官である。