微妙な立場

建寧元年、帝即位、追尊萇為孝仁皇、陵曰慎陵、以后為慎園貴人。及竇氏誅、明年、帝使中常侍迎貴人、并徴貴人兄寵到京師、上尊號曰孝仁皇后、居南宮嘉徳殿、宮稱永樂
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、孝仁董皇后)

(何)進與三公及弟車騎將軍苗等奏「孝仁皇后使故中常侍夏綠・永樂太僕封諝等交通州郡、辜較在所珍寶貨賂、悉入西省。蕃后故事不得留京師、輿服有章、膳羞有品。請永樂后遷宮本國。」奏可。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、孝仁董皇后)


この孝仁皇后董氏は見て行けば行くほど面白いな。




先日の記事でどうも皇太后にはなっていなかったんじゃないかと書いたが、その一方で「永楽宮」と皇太后と同じような宮殿と呼び名を与えられ、「永楽太僕」といった直属官僚も確認できる(皇太后宮の場合と同様)。


また「董太后」と呼ばれている事例もある。






正式には皇太后に立てられないままに事実上の皇太后と言うべき地位は与えられていたということなのだろうか。



宦官・官僚・外戚といった各勢力の均衡のため、もともと微妙な立場(皇帝の生母だが亭侯の妻だった)の董氏を後宮でも微妙な立場に置き続けるという判断がなされていたのかもしれない。