任峻字伯達、河南中牟人也。
漢末擾亂、關東皆震。中牟令楊原愁恐、欲棄官走。峻説原曰「董卓首亂、天下莫不側目、然而未有先發者、非無其心也、勢未敢耳。明府若能唱之、必有和者。」原曰「為之奈何?」峻曰「今關東有十餘縣、能勝兵者不減萬人、若權行河南尹事、總而用之、無不濟矣。」原從其計、以峻為主簿。峻乃為原表行尹事、使諸縣堅守、遂發兵。
(『三国志』巻十六、任峻伝)
この話って今まで見過ごしてたけど凄いことじゃね?
話の内容からすると董卓が権力を握ってからのこと。
河南尹管轄の中牟県令楊原は恐れて官を捨てて逃げようとした。
だが、その県出身者の任峻は彼を説得した。
「董卓が乱を起こしても誰も彼を追討する兵を出さないのは、その気持ちが無いからではありません。まだそれだけの勢いが無いからです。貴方が提唱者となれば、必ずや唱和する者が現れるでしょう」
任峻は県令の楊原に反董卓の兵を真っ先に挙げろと唆している。
楊原が「どうすればいい?」と尋ねると任峻は答えた。
「今、関東で(河南ではということか?)兵士になれる者の人数は一万人は下りません。もし臨時に河南尹を代行してその兵を統率すればできないことは無いでしょう」
この時、どうやら河南尹が不在(あるいは赴任していない)らしく、中牟県を含む河南尹管轄下の諸県は統率者不在の状態だったらしい。
任峻はそこに目を付け、その隙に臨時代行を名乗って兵士を集めて指揮下に置いてしまいなさい、と言っているようだ。
真っ当な官僚としては既にギリギリアウトな進言と言えよう。
結局、楊原はその献策に乗って河南尹代行を名乗り、管轄下諸県に各自県を守るようにと指示し、最終的には兵を挙げた、とのことである。
おそらくだが董卓が献力を握り、皇帝廃立を行ったあたりでの出来事ではないかと思うのだが、そうだとするとこの時董卓は洛陽以外の河南尹管轄下の各県の支配を失っていたことになる*1。
洛陽も河南尹管轄だが、流石に董卓自身が駐屯する洛陽まで臨時代行の指示に従ったとは思えない。
洛陽にはそれなりに多くの兵がいたはずなので周囲が背いたからといって董卓がいきなり詰んだりはしないだろうが、董卓はこの時中原のど真ん中で洛陽と朝廷を人質に孤立していたと言えないことも無いわけだ。
あと、この楊原の行動はことによると曹操の挙兵より前に事実上反董卓の兵を挙げる行為であった可能性があるな・・・。
少なくとも、任峻の献策の段階ではまだ反董卓の兵を挙げる者はいなかった前提になっている。