洛陽復興の立役者

昨日の記事だが、ツイッターでの指摘その他から考えるに、皇帝を魯陽に置くと言っても魯陽が袁術のテリトリーとも限らないという風に考え直した。




では、この時期のその近辺ではどの勢力の影響が強かっただろうか。






興平元年*1詔書徴(趙)岐、會帝當還洛陽、先遣衛將軍董承修理宮室。岐謂承曰「今海内分崩、唯有荊州境廣地勝、西通巴蜀、南當交阯、年穀獨登、兵人差全。岐雖迫大命、猶志報國家、欲自乘牛車南説劉表、可使其身自將兵來衛朝廷、與將軍并心同力、共奬王室。此安上救人之策也。」承即表遣岐使荊州、督租糧。岐至、劉表即遣兵詣洛陽助修宮室、軍資委輸、前後不絶。
(『後漢書』列伝第五十四、趙岐伝)


献帝長安から東を目指し、ついに洛陽に近づいてきた時のこと。




董承が先に洛陽入りして宮殿の修理をすることとなった。




その際、皇帝の使者となっていて皇帝の元へ戻るところだった趙岐と出会い、趙岐から「荊州劉表を説いて洛陽の朝廷を守り皇帝を助けさせよう」と進言を受け、董承は皇帝に伝えて趙岐を劉表に派遣することとなった。



劉表は兵を洛陽へ出して宮殿修理を助け物資を絶えず輸送したという。





つまり、献帝が洛陽入りする頃、荊州劉表は洛陽にまで兵を出していたわけであり、荊州にある魯陽も、袁術よりも実際に州牧でもあり兵を進出させてもいた劉表の方の影響力が強い地域だった可能性も十分ある。



もしかしたらだが、曹操の「魯陽に皇帝を置こう」という嘘っぱちの進言は、趙岐が言っていた「劉表に皇帝を守らせる」という路線に従ったものであったのかもしれない。



当時の状況からして、洛陽の宮殿復興に一役買った劉表の力をまた借りようというのは自然な流れではなかろうか。


だからこそ、楊奉はコロッと騙されたのか・・・?

*1:「建安元年」の誤りかもしれない。